(講師経歴) 田中先生のご専門は思春期青年医学です。北海道大学医学部を卒業後、大学の医局や札幌市の病院等で臨床活動を経験され、2000年に北小田原病院副院長に就任されました。 その後、東京都に拠点を移され、都立梅が丘病院、都立小児総合医療センターの副院長を歴任されました。2019年には「子どもと家族のメンタルクリニックやまねこ」の院長に就任され、現在もご活躍中です。 その他、山梨県立こころの発達総合センター所長をはじめ、様々な法人での理事や代表、厚生労働省の専門委員と幅広い分野でご活躍されています。主な著書には、「発達障害とその子『らしさ』」、「発達障害のこころのふしぎ」などがございます。 (講演)  皆さん、こんにちは、田中でございます。今日は大事な会にお招きいただき、また本当に多くの方にお越しいただいてありがとうございます。コロナが流行っていた期間、講演会がみんなWEB形式で、パソコンに向かって話しかけるのがだいぶ慣れてきてしまったので、久しぶりに本当にね、これだけの人数の方と直接お会いしてお話をするのは本当に久しぶりなんですけれども、何て言うのかな、話が直接伝わっていく嬉しさみたいなものを今ちょっとかみしめています。  今日は、あの、発達障害についてのお話なんですけども、多分色んなことを期待していらっしゃっていると思いますけども、うまくその期待にお応えできるかどうか分かりません。いつも私が臨床をやりながら、クリニックで仕事をしながら思っていることなんかをまとめたことをお話ししますので、すっかりご期待にそえるかどうか分からないんですけれども、質問なんかもいただいて、皆さんがどんなことをお考えか少し掴めましたので、それを最後にお答えする形にしながら、できるだけ皆さんの思いにお答えしていきたいと思いますし、できれば知ってらっしゃる発達障害の子ども達、大人たちの姿を思い浮かべながら、顔を思い浮かべたりしながら、お聞きいただけるとより分かりやすくなるかなと思います。 タイトルはここにありますように、“発達障害のある人を地域で支える”。実は、いただいたテーマではあるんですけれども、私にとってはずっとここ何年も、メインの、一番関心のあることであり続けています。つまり、発達障害だけじゃなくてなんですけれども、子どもの心の問題を専門家が支えるだけでなく、また家族が支えるだけではなくて、地域が、人々がどうやって支えていくかということですね。その形をうまく見つけ出すことが今の子ども達を幸せにしていくことに一番繋がるんじゃないかなというふうに考えているからです。  ええと、どこから始めようかなと思ったんですけど、こういうことわざがあるのをご存知でしょうか。どこかでご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。“1人の子どもを育てるには村が丸ごと必要である”ということわざなんですね。これはアフリカのことわざというふうにわざわざ断り書きがしてあるんですけども、僕は初めてこれを見たのは、あのヒラリー・クリントンっていますよね。トランプ大統領、トランプさんと大統領を競った人だったんですけども。その人の著書に、この言葉をタイトルにしたものがあったんですね。まあ、その本の中身もちょっと別にして、この言葉をずっと味わいながら読んでいると何かすごくいろんなことがイメージされるんです。でも、写真にアフリカの村をつけたんですけれども、こういう村に子どもが生まれるって、きっと何かその家庭にとっての大きな出来事であるとともに、村にとっても大きな出来事なんだろうなということなんですね。そして村人でありながら、この子どものことを、1人の子どものことを知らない人ももちろんいないでしょうし、みんなが関わりを持つ、「私は、その子どもの育ちに無関係だよ。」って言う人が1人もいないような中で、でも貧しいかもしれないけれども、理想的に子育てっていう、子どもが育つってことが行われるっていうふうにも読めてきたんですね。で、そうすると今、いろんなことが便利になり、もっとコミュニティのサイズも大きくなって、時代が変わって、なんですけれども、日本でそれと同じような意味での子どもの育ちっていうことが保証されているかなということを考えた時に、うーん、だいぶ違ってきちゃったなっていうふうに思うようになった。じゃあ、ここで言われている子どもを育てるってことの大事さって一体何なんだろうってことですよね。多分こういう中では発達障害の子っていないんじゃないかなと思うんですね。実はある時ですね、数カ月前なんだけれども、うちのクリニックに多動な、すごく多動な子どもさんを連れていらした方がいて、御両親が外国の方で、特にお父様がですね、モンゴルの方だったんですね。で、「これこれこういう訳でこんなことがあるから、きっとこの子どもは学校に落ち着いていられなかったり、難しいんだと思います。」っていう話をしたんですけども、お父さん曰く「モンゴルではこういう子は普通だよ。」って。もう平気で草原を走り回っていて、日が暮れれば帰ってくるし、また日が昇るとあっという間にどっか行っちゃうんだ、みたいな話をしていてですね、ああ、そういうこともあるのか、これ日本だから、もしかしたら問題になるのかな、障害とかいう名前が付いちゃうのかなと思ったこともありました。それが全てじゃ、もちろんないんですけれども、そういう文化といいますかね、どういう中で子どもが育つか、どういう人たちの間で暮らすかで、その障害って言われることも随分変わるんじゃないだろうか、違って見えるんじゃないだろうかということも思ったことです。 で、それじゃあ、その今の日本で子ども達がどんなふうな育ち方、あるいは支えられ方をしているか。で、私がちょっと気になっていることなんかも含めて少しお話をしたいと思うんですけども。 これは何かって言いますと、子どもの育ちの青信号なんですね。子どもの育ちに青信号が灯るためには、こういう要素、今書きましたけども、スライドに出ましたけれども、まず一番大事なのは、この子どもの発達の潜在力、ポテンシャルといいますかね、子どもの発達が潜在的にすごく大きな力を秘めている。これが一番大事。私は、もうかれこれ40年近く児童精神科医やってるんですけども、最近特にですね、自分がいかに仕事をしてないかっていいますか、自分が仕事をして苦労して子どもを治してあげるっていうことが、何て言うのか自分の仕事がそれからすごく遠いことを感じるんですね。で、私達の領域で子どもが良くなっていくっていうのは、ほとんど子どもがこの潜在力を発揮して、どんどん自分で成長していく、元気になっていく、大きくなっていって、元々あった問題を乗り越えていくんですね。で、問題よりも子どもの成長の方が大きくなった時に問題は大体解消する。そういうことがほとんどであるという気がしてきてる。例えば学校行かない問題とか、友達とうまく遊べない問題とか、家でお母さんに乱暴しちゃう言っちゃうといった問題があるんですけれども、そういった問題が収まるっていうのは何か私達が治療して治してあげるとかいうよりですね、そういう問題を子どもの成長が追い越していく、それよりも大きな人に、人柄としてですよ、体じゃなくて人柄として大きな人に成長して、人柄が厚みを増していくというんですかね、こうなった時に初めてそういう問題が、「そんな時期もあったよね。あの頃、僕何考えてたんだろうね。」って言うようになる。そういうことのような気がするんですね。そうすると、もう何よりもこの潜在力っていうのがうまく発揮できるようにしてあげるというのが我々にとって一番大きな仕事で、その邪魔になっているものを極力どけてあげるっていうのが我々の大きな仕事になります。で、そういう邪魔をどけるだけじゃなくて、実はこの潜在力が発揮できる大きな要素に、この家庭の安定っていうのがあるんですね。家がどれだけ安定しているか、家がどれだけ安心して出発でき、また帰ってこれる所になっているか、ということが大きいのと、もう一つあるとすると、この子ども集団の自尊感。ちょっとうまい言葉が見つからなくて少し分かりづらい言葉になってますけども、子ども達がですね、自分達が大きくなっていく、大人になっていくのはいいことなんだ、みんな大人達にそれを喜んでもらえてると思って育っていける、子ども達子ども時代を満喫している、そういう輝いた子ども集団があって、その集団が見えた時に、子ども達、子どもっていうのは、あの仲間に入っていきたいと思うわけですよ。入っていきたいと思った時に、子どもは、たぶん一番最大限に潜在力を発揮する、こんなふうに思うんですね。もうできないことができるようになっていくっていうのを、突然尻叩かれてじゃなくて、周りがみんなできている、よし俺も頑張ってやれるようになりたい、自分はまだ自転車に乗れない、でも周りの子ども達が今度自転車に乗った、あそこ遊びに行こうぜってなった時に必死になって自転車練習するわけですよ。そうやって子ども達って大きくなっていく、新しいことを獲得していくっていうことがあるような気がして。これがそうです。 で、そういう子ども達の自尊感とか、家庭の安定を実は背後からしっかりと支えているものがあって、それはこのコミュニティ。コミュニティっていうのは子育てに直接関わらない大人たちですね、その存在だろう。直接関わらないっていうのはちょっと言葉が過ぎているかもしれませんけど、例えば学校の子ども集団があれば、それを支えてる育ちの支援コミュニティは、学校の先生たちということになりますよね。あるいはPTAのママさん達。で、ご近所の家庭のママ友達。で、そういう人たちが今度は家庭も支えている。子ども達に対して、子どもって特別だから、子どもだから今できないのはしょうがなかったり、静かにできないのもしょうがない。でも、できるようになっていくっていうのはすごいことだよっていうふうに思っている大人達がいて、はじめて子ども達は自分たちで「OK」と思って育っていける。で、そういうサポートシステムといいますか、コミュニティに支えられて家庭も安定した。そういう仕組みがある、あったんだろう。それが機能してるのが先ほどの村の例えなんだろうと思うんですね。で、その時に心理的な自立が必要か。−ちょっと前に戻っちゃった、すみません。−心理・社会的な自立ということが初めて可能になるんだろうというふうに思うんですね。だから、こういう全体の組み合わせとしての循環であると同時に、これは子どもが家庭で生まれて育って、子ども達の中に入っていって、コミュニティに参加し、そして自立をしていく。次には自分達が今度はまた家庭を作っていくという、そういう意味での子どもの育ちの循環でもある、というふうに思うんです。 これは、その子どもの育ちの潜在力の絵なんですけども、これロケットだとすると、潜在力に相当するのは、このブースターって言いますか、補助ロケットで、これが性能が揃っていると子どものロケットはまっすぐ飛んでいくんですね。だから、この補助ロケットの性能が十分発揮できるようになることが必要で、そのための大きな鍵を握ってるのが、この発射台なんです。発射台っていうのは必要なものを全部組み合わせる。飛び立ったら修理できないですから、もう全部そこでチェックをして、計算をして、カウントダウンをして。「今だ、行っておいで。」って言って子どもを送り出すと、子どもは順調に育っていく。そういう役割ですよね。それだけに、この家庭発射台が安定している、しっかりと周りから支えられて、岩盤と言いますか、周りの地面から支えられて立っていることが必要なんだろうというふうに思うんです。 これが全体の図です。ところがね、これ、何を言いたいかと言いますと、こうやってうまくいくよ、という絵であるとともに、これがうまくいかないことがある、ということを描きたくて描いてあるんですね。うまくいかない時には、この絵だといい循環、うまくいっている循環なんですけども、こう一転してうまくいかないと逆、悪循環になっていってしまう。その絵を描いてみますと、これ全部裏返すんですね。これは赤になる、赤になるってことは、赤信号が止まると、これは全部逆の要素。子どもの潜在力が発揮できないから、それは不均衡として残っちゃいます。家庭は不安定でそれを支えきれないし、子ども集団の自尊感が低下して、周りの子ども、違う子どもを受容することが難しくなってくる。そういう状況をコミュニティもうまく支えていない、支えられない、こういう悪循環なんですね。むしろ今の状況、今の子ども達社会で目につくのはこの状態なんです。だから、むしろこの状態を考えた方が、私たちにとってはずっとピンとくるんですね。そういえばそうだよなと思うところが多い。きっとまだ何のこと言ってるかよく分からないという方も多いと思うんですけれども。じゃあ、これが実際に子どもの生きにくさとして現れ、表面化して、初めて私たちが目に触れるようになる。その時、どんな姿をとるかというと、この子どもの発達の不均衡、きっと発達障害の増加という、そういう、なんて言うんでしょうね、現象として現れると思うんです。あとで発達障害の話をしますけれども、発達障害は、本来は子どもの脳機能の異常です。脳機能の異常ってことは、先程のロケットでいうと、ロケット本体のバランスが悪い、性能が揃ってないんです。ところが、病気っていう観点で考えると、今その脳障害の遺伝的に支配、遺伝的に決められるような脳障害が増えるっていう想定をはるかに超えて、どんどん発達障害の子どもが増えている。つまり、本来の病気としての発達障害を上回る何かがきっと起こっているんですね。それは社会現象ということかもしれない。一つ言えるのは今の家庭がきっと子ども達をうまく育つ土壌を提供できていないということ。それから子ども達集団が、なかなか子どもが入っていけるような集団になっていないということ。そして、それをうまく支えるコミュニティがうまくでき上がっていないということなんですね。その話をもう少し進めますけれども、そういうアンバランスな子どもが、今度は子ども集団に入っていこうと思った時に起こることっていうのは何かっていうと、うまくそこに居場所が見つからないという問題。どうしてかというと、その子ども達集団の気持ちが狭くなっていて、自分たちがあんまりうまくいってない、だから一緒にやろうよって、誰でも彼でも迎え入れることができなくなっているんですね。そうすると、その子ども達が居場所を子ども達集団の中に見つからない、見つけられないので、これが学校集団であれば不登校という現象に当然なってくるだろうと思うんです。同じ現象を子ども集団の側から見るとですね、ちょうど裏側から見ると、何が起こっているかというと、自分たちがあんまりうまくやれてる感じがしないところに、もっとバランスの悪い子ども、もっと見慣れない子ども、自分達と違う子どもが入ってこようとする。そういう子どもを受け入れてしまうと、自分達はもっとバランスが悪くなっちゃう。自分たちがうまくやれているっていう感じがもっと落ちちゃうんです。そういう子どもを外していこうとする、仲間じゃないよねって考えようとする。これが既にある子ども集団の中で起これば、ある子どものうまくいかない特徴、みんなと違うところで特徴を探し出して、その子どもを自分たちの仲間から排斥していくっていう動きになる。これ何かいうといじめのからくりですよね。誰か被害者を見つけ出して、その子どもを外していくことで自分達を安定しようとする。だから、それが外し終わって少し安定すると、今度また次のターゲットを見つけ出すわけです。あるいは、いじめる側、いじめられる側が絶えず入れ替わる、そういう仕組みがありますよね。それは、いじめという行為そのものというよりも、そのくらい子ども達集団の心が狭くなっている。誰でも一緒にやろうよっていうふうに思えなくなっているところに問題があるんだろうと思います。で、そういう子ども達が傷つきやすく、心が狭くなっていることのもう一つの表れが子どものPTSDとか自殺という問題だと僕は思っているんですね。こういうふうに書くといじめと自殺っていうのが関連がすごい強いように見えますけど、確かにいじめ自殺というのは多いんですけども、実は全体の数からすると、子どものいじめ自殺ってそんなに多いものではない。それをはるかに上回って多いのは、いわゆる指導死だとか、それから生活上のことで、たとえばパソコン、携帯とかスマホが取り上げられて、「そんなんなら生きてるより死んだ方がまし。」って言うと本当に飛び降りちゃう子どもとか。だから、大人が子どもを傷つけてる場合の方がはるかに多い。それも大人がそんなことで子どもが命を落とすとは思ってないようなことで子どもが命を落としていく。つまりそのくらい子どもの心が傷つきやすくなっちゃっている。そういう現象なんですね。その傷つきやすさっていうことでは、このPTSDご存じでしょうかね。その子どもの心が小さい頃にうんと大きな傷を負った時にその傷を巻き込みながら成長していくと、どうしても真っすぐうまく育っていかない。繰り返しそのつらい記憶に悩まされるということがあるんですね。その現象です。そういう傷つきやすさとして子どもの中に残っちゃう問題。さらにその子ども達集団とコミュニティの関係を考えると、子ども達にとっては、うまく大人が自分達を大人にしていくような、大人になっていくような道を作ってくれないように見えるんですね。「このくらい成績を取らないといい学校行けないよ。」ってお尻叩かれる。どこまでやっても満足はないんですよね。「よくやったね。」って言ってもらうことなく、「この次はもっと頑張ろうね。」って言われる。そうするといつまで経っても、今の子どもの今の時代、「この時がよかった。子どもとしてすごく楽しかった。」と、なかなかならないんですね。どこまでやっても「もっともっと。」って言われてる感じがする。で、実際大人になってみると、そこにバラ色の、何て言うのかな、いい大人って素敵だなっていうのが描けているかというと、そうでもないんです。何か大人は、みんないつも苦労してるし、何かどこまで行っても楽にならないなというふうに思うわけですね。そうすると、子ども達は大人になっていく、何て言うんでしょう、希望がなかなか持てないんですよね。私は、この仕事をやっていて最近すごく思うのは、「ねぇ、僕さぁ、大人になったら何になるの?」「どんなことをしてみたい?」って言って、答えられる子どもがすごく減ってるってことなんです。もうそれこそ自分のイメージを大事にしてもらって、何て言うのかな、バランスよく自分らしさを楽しんでる子どもっていうのは、「僕、大きくなったらね。」って目を輝かせるんですけども、発達障害の子どもも含めて、本当に多くの子どもが「考えたことない。」とか、「考えられない。」とか、「それはもう大人になってから決める。」とか、「どうせ何にもなれない。」とかって言うんですね。で、それが見えないと頑張る理由が見えないわけですよ。頑張る理由をなかなか見せてもらってない、そういう感じがします。そうすると、そういう状況に対して子ども達は異議申し立てっていうか、「そんなことじゃ、僕ら大人になれないじゃん。」っていうふうに大人に対して抗議する。抗議ですから、大人が、何でしょうね、一番こうしてほしくないことをするわけですよね。大人の心の棘になるようなことをする。子どもが思い付く大人の心の棘になるようなことって何かっていうと、いわゆる非行なんですよね。「それだけはやめてよね。」って放っておけないことを子どもは選んですると言ってもいいかもしれない。そういう背景で起こるのが、例えば繰り返される万引きだとか、まあ乱暴だとか、それから女の子だったり性非行だとかそうだろうと思います。それから、依存の状況ですね。最近、風邪薬みたいな咳止めみたいなのいっぱい飲む子どもが増えてますし、最近流行りの依存で言えば、ご存知のようにスマホとかゲームとかですよね。大人が放っておけないから止める。そうするとそこでバトルが起こる。その時に初めて子どもと大人がある意味で真剣に向き合うんですよね。そうじゃないとなかなか「お前どうする気だ?」っていう、こう大人と子どもの真剣になった対話がなかなか生まれないんだろうと思いますし、同じように考えられるのが自傷行動っていって、子どもが自分を傷つける行動があります。手首切るみたいなのが頻回に起こりますけども、それもいろんな意味合いがある。本当に死にたい子もいるし、振り向いてほしいだけの子もいるし、何かこう切るとほっとするみたいな子どももいるんです。ただ、いずれにしろそれが癖になっていて抜けられなくなっていくということがある。それっていうのは何か自分が今のままではうまく大人になっていけないっていう、子ども達の、何て言うんでしょうね、体を張った抗議のように私には見えますし、リストカットまでする勇気がなかったり、行動力がない子どもが何やるかというと、ピアスをあけたり、タトゥーしたりなんですね。僕はピアスとかタトゥーとかっていう、ことによると髪の毛をとんでもない色に染めたりっていうのもですね、違う意味での自傷行動なんだろうな、体を借りてのアピールなんだろうなっていうふうに思いますし、全体が大人になっていくことの難しさを子ども達が語っているので、なんか大人拒否、大人になるの拒否みたいな。それが一番象徴して表れているのが拒食症なんですね。摂食障害の問題とか、ひきこもりの問題とかというのがここに現れてくる。みんな別々の症状のようですけども、全部を通して言えることは子どもが上手に大人になっていくってことに大きくつまずくようになっている、ということです。で、そうした中でも何か格好だけは成人にして、世の中に出なきゃいけなくなって、その準備もできてないし、能力もなかなかないし、ということでそういう中を子ども達が社会に追いやられちゃうんですね。すごく心細くてしょうがない、誰かと身を寄せ合って生きるみたいなことになるんですけど、その時に本当に何かたまたまとかいうことじゃなくて、しばしば起こるのがこの問題です。予期せぬ妊娠とかDVの問題。こういうケースを僕らの何人も子どもの臨床をやりながら、この子どうやって大人になっていくのかなと思う果てに見てきた気がするんですね。で、そういう子ども達もまあしょうがない、しょうがないって言ってはいけないのかもしれませんけども、年齢が来て、たまたまいい人が見つかると家庭を持つ。今度は、自分が子どもを育てる番になるわけですけども、それだけの準備も力もないんですよね。準備っていうのは心の準備ができてない。そうすると、たちまち起こるのが子の養育困難、うまく子どもを育てられないっていう問題。それから、その果てにあるのが虐待の問題なんです。どうでしょうかね。今、何か悲惨なルートばかりお話したけども、これが決して一人の人に起こるわけではないにしても、こう、いろんな形で子どもの行く先々に、こういった問題が現れるんですね。で、子どもの生きづらさ、生きにくさとして見えてくるものとして、この背景を落としてみると、こんな感じでしょ。僕はある時、この絵を自分で描いていて愕然としたんですよね。何だ、これって児童精神科がやってることの全部じゃないかと思った。児童精神科は子どもの心の問題を扱うんですけども、歴代いろんな、この道30年40年やってきて、いろんな問題を扱ってきました。であれもある、これもあると思ってたんですけども、その全部がこの上に乗っかってるような気がしたんですね。その時にずっと疑問だった、何で僕らのやってることって減らないんだろうって。みんな減らないでしょ。発達障害は増えてるし、いじめも減らない。不登校も減らない、非行も減らないし、虐待も全然減ってないんですよね。しかも、今回の、ここ数年のコロナの影響でまた増えた。で、その秘密がちょっと分かったような気がしたんです。減らないはずだよねって全部根っこでくっついて、それはその子どもがうまく育たないっていう問題に繋がってるんですね。で、そうした時に、これは個々の問題だけ取り上げて対策しててもダメじゃないかと思ったんですね。例えば、いじめの問題、不登校の問題ですね。不登校の問題を学校に行けば解決すると思って、子どもを学校に行きやすいような行かせるような働きかけをしますでしょ、不登校対策って普通。でも、それではどう考えても、この一連の悪い流れそのものに対処してることにならないんですよね。で、その僕らが向かわなきゃいけないものって何なのかということを、そこでちょっと考えちゃったっていうことになるんですけども。今日の話に戻りましょう。発達障害っていうのを、こういう文脈の中で考えたいんです。単にアンバランスな子ども達がいっぱい出てきて、そういう子ども達をどうしてあげたらいいんだろうねっていうのは、それこそ、さっきの不登校の子どもを学校に行かせようとか、いじめダメだよねとか、虐待防止とか、虐待をみんなで見守ろうとか、そういう個々の現象を潰していくことにしかなっていなくて。もっと子どもの発達っていうのを全体で捉えて、それをサポートするやり方っていうのを考えていかないと、発達障害の問題に僕らはもう、対処できないかなっていうふうに思うようになりました。 そこで、ここで発達を支えるコミュニティの役割っていうのは何か、というのをもう一回考えてみたい。先程の横長の楕円の絵で言えば、下のとこにある子どもの支えを、子どもの発達を育ちを支えるコミュニティの役割。はじめのスライドですと、子どもの育ちに村一つがまるごと必要だっていう、その村って何だろうということですね。その役割を考えてみたいと思うんです。 1つ言えることは、ヒトの子どもっていうのはとても特殊で、とても未熟なまま生まれるんですね。このことをご存知の方が多いと思うんですけれども、他の哺乳類に比べて人間の月齢でいうと約1年、12ヶ月ぐらい早いっていうふうに言われる。つまり他の哺乳類だと大体お母さんのお腹から生まれて1ヶ月もしないうちに立って歩くし、目が見えているし。自分でお母さんのおっぱいに吸い付いていくことができるし、敵から身を守ることができるんですね。で、人間の赤ん坊がそれに相当する力を身につけるって、いつ頃でしょうかね。そもそも立って歩けるのが1年ですよね。立って歩けると、ようやく両手が自由になって、人間らしいものを操作したりということができるようになる。あるいは言葉を喋るようになるのも1年ですよね。それから拒否とか、「これは自分でやりたい。」とかっていう意思表示をするようになるのも1年ですよね。これは、だから、はじめの1年間は、いわば人間の赤ちゃんってお腹の中にいても同じ、同じって言うのかな、お腹の中に本来はいるような成熟の仕方をしている。初めて1年経って、他の哺乳類の子どもと歩調を合わせるようにして生まれてきて、自分らしい行動を始めるんですけども。でも、人間の子どもが1年早く生まれてきちゃうっていうのは、僕それなりのすごく深い意味がある、わけがあると思っているんですね。そこを考えていきたいと思うんですが、えーと、つまり自分では無力な赤ちゃんが唯一あてにできるものって何だろう。それは周りの大人たちなんですね。その時にお母さんだけじゃないんですよ。いろんな人が入れ替わり、立ち替わり自分の周りに現れて、少なくとも自分にとって、対していい接し方をしてくれる、可愛がってくれる、大事な子どもだっていうふうに言ってくれる。で、そうした安定した関わりから生まれる子どもの存在肯定、自分を肯定する。あのぉ、たぶん物心ついて意識が芽生えた頃に全ての子どもは、自分っていい子だと思っている。大抵はですね。虐待を受けている子ども以外っていうふうに言ってもいいかもしれない。だって、僕らもそうでしょ。子どもを預けられて、何か0歳児と「ちょっとお願いね。」って言われて、ある時間、ちょっと小1時間過ごさなきゃいけない。で、もう大人しく寝ててくれればいいけどなあと思って、でも案の定火が付いたようにギャーと泣き出すわけですよ。皆さんどうします。とりあえずしようがないから抱いて「よしよし、よしよし。」ですよね。で、これもほとんどの人がやることだと思うんです。その時、一体何が「よしよし。」なのか。ちっとも良くはないんですよ。子どもは泣くし、おしめ代えなきゃいけないし。それまでやってた自分のことが全然できなくなるし。ちっとも良くないんだけれども「よしよし。」って言うんです。その「よしよし。」っていうのは、その子どもがしたことに向けられているんじゃなくて、子どもがいた、子どもがいる、そこにいる、ちゃんと大人の見ている人がいるよっていう意味で「よしよし。」なんですね。だから子どもは、何も考えていないようには思う、見えるんですけれども、ちゃんとそこを感じていて、大人がそばにいてくれるってことに対して安心している信頼している。それが、その子どもの存在肯定ですね。自分っていてもいいんだ。そうこうするうちに、こう、一番安全な人っていうのは分かってきますよね。おばちゃんでも大丈夫。泣き止むんだけれども本当はお母さんがいい。お母さんのいるところで、それ以外の大人がアプローチしてくると、不安が、何か、お母さんがいなくなっちゃうんじゃないかという不安が子どもの心に芽生えるでしょう。で、そこで始めるのが何かっていうと人見知りですよね。まさに人見知りっていうのは、赤ちゃんが人を見知る、人を識別するようになってする行動なの。で、それは何か、一見自分にとって大事な人以外の人を遠ざける行動のように見えるんだけども、最近の研究だと、どうもそうじゃないらしい。つまり、人に対して、自分に対してアプローチする人に対して、関心が高い子どもほど人見知りが強いんです。分かりますかね。もちろん、不安の強さってこともあるんだけれども、誰かがアプローチしてくる、その人と関わりたい遊びたいっていう気持ちが強い子ほど人見知りが強い。なぜでしょうね。まだ安全に関われないからなんだと思うんですね。だから、まず自分の安全を確保する必要がある。安全が確保されたところで初めて関わりが始まる。僕らが赤ちゃんと仲良くなるのもそうですよね。お母さんにおんぶされている時とか狙うわけです。狙うって言うか、そういう時を見計らって子どもと顔を合わせるわけでしょ。「これは、おじさんだよ。」って。すると子どもは、そういう安全な所からだったら、1回見た顔を忘れないんですね。で、不安があってお母さんにしがみつくんだけど、必ずその1分後ぐらいには、まださっきのおじさんこっち見てるかなと思って、こっちを覗き見るわけです。でも、やっぱりまだこっち見てると、やっぱり恥ずかしいからお母さんに顔を伏せる。その後でもう1回見るわけですよ。まだこっち見ている。そこで初めて気持ちが通じるっていうか、自分を見ている人と自分が肯定的に見てもらえている。つまり、関わりが生まれるってことが始まるわけで、それが大人に懐くってことの第1歩でしょ。それなんですよね。だから、そういう関わりを持ちたい子どもほど強く人見知りするということです。だから、それは、その人間が未熟なままで生まれて、人間関係を広げていくための手段なんですね。1コマなんです。まず初めのやり方なんだろうと思う。その時代から言えることは、子どもっていうのはコミュニティに生まれる、コミュニティで育っている。だってそうでしょ。あのぉ、生まれた時にこの世に生まれて一番先に接する大人っていうのはお母さんじゃないんですよね、人間の場合。取り上げてくれる助産師さんだったりする。助産師さんが、もうヘトヘトになってるお母さんに、「ほら、かわいい赤ちゃんですよ。」って会わせてくれて初めて会える。毎日の生活でも、お風呂に入れてくれるのお父さんとかね。時々来てあやしてくれるのおばあちゃんとか、いろんな大人がそこに入れ代わり立ち代わり現れるわけです。そういう中を生きていくっていうのが、実は人間の心の育ちの第1歩だということです。子どもは生まれた瞬間から人の間で暮らし始める。それが先程のアフリカのことわざの意味するところだと思います。無関係の人は1人もいないんですね。で、逆に言うと、人の心は人の間でしか成長できないんです。だからお母さんしかいない無人島か何かで、お母さんと子どもしかいない環境の中で心が育つかというとたぶん無理なんですよね。なぜかというと、例えば、他の人と暮らしていくために我慢をするとか、ルールを覚えるとか、人に関心を持つとか、何かやってみるとかという必要は一切ないから。そういうことを始める、そういうことを始めるのが、子どものほぼ0歳から1歳。つまり人の心っていうのを人の間でしか、人に囲まれてしか成長できない。で、その人っていうのがコミュニティに相当するんですね。 もう一つコミュニティの役割、もっと大きくなった時の役割を言うと、これは先程の村の様子ですけれども。元々はきっと村っていうのはこういう周りがずっとサバンナ草原でそこにいる人たちがコミュニティを作っていたんだけど、現代って違いますよね。現代は決してそうではなくて、こういう知らない見ず知らずの人がみんなマスクをつけて周りにいっぱいいるっていうのが社会ですよね。下北沢の駅に出てみれば、あるいは新宿まで行ってみればこういう光景に出くわすわけです。基本的に周りは知らない人。でも、さすがにそれでは生きていくのも大変なので、人間どうするかっていうと知り合いを作っていくわけです。これは社会だとすると、これがコミュニティですね。知り合いの、会えば挨拶をする人たち。マスクしていても、何か知り合いだって、顔見知りがわかる。そういう人たちがいて、一緒に生活をする。一番わかりやすいというか、おなじみなのが地域コミュニティです。同じ地域で暮らしていて、大事な生活の必要なものを共有している。同じお店で買い物をしているとか、同じ道路を使っているとか、そういう人たちですよね。で、その中の二人が知り合って家庭を作ります。どういうコミュニティでもいいんですけれども、その中で家庭を作っていく。そこに子どもが生まれるでしょ。そうするとね、この家庭の役割って何かっていうと、この子どもを社会で生きていける一人前の子どもに育て上げることなんですね。それは家庭の役割。つまりこうやって子どもに自立をさせる。自立っていうのは知らない人の間でも自分の居場所を作ることができて、そこで生活していくことができるということでしょ。でも、これ考えても今の社会で考えてみると、絶対無理なんですね。子ども一人の力では、あるいは家庭の力では。だって家庭っていうのは無条件で安定してるところで、そこでは小さな社会ではあるけれども、この知らない人との間のコミュニケーションのやり方、よそでどうやってコミュニケーションを取ったらいいかってことを学べないんですよね。皆さんの知っている子ども達でも、家へ帰ってきた時の家族を中心にしたコミュニケーションと、よそのコミュニケーションって全然違うでしょう。よそいきのっていうか、ちゃんと人の間では、説明することをきちんと説明しないと通じないんです。よその子どもでも、よその大人でも。家族ってそうじゃないですよね。言わなくても分かってもらうことがいっぱいあるわけです。そういう生活いくら安定してても、よそのコミュニケーションの力、生きていく力つかない。そこで人々どうやるかというとですね、まず、子どもをコミュニティに送り出すんですね。これは例えば先程の地域のコミュニティであれば、お買い物に連れて行く、公園デビューする、みたいなことから始まるでしょ。そのうち、子どもが子ども達同士で遊んで友達を公園で作るみたいなこともするでしょ。でも、時々群れて遊んでいると、何か地域のおばちゃんに見咎められて、「ほら、ほら、僕、そんな所で遊んでたら危ないよ。」ってちょっと叱られたりするかもしれない。そうこうするうちに1人でおつかいにも行くし、友達の家に遊びにも行くし、こういうのが地域の生活ですよね。そうやって、社会の中でどう生きていくか、よそでする振る舞いとか、説明の仕方とコミュニケーションの取り方とかっていうのを覚えていくわけです。で、だから社会に出ていくことができる。こういう役割があった。今お話したような地域の生活、子ども達の地域生活のことを考えても、最近、それがすごくできにくくなっているのをおわかりになりますよね。地域で子どもを育てるという、子ども達が地域で育つっていうことがどうも難しくなってる。遊びに行っても、公園で子どもがただ群れて遊んでるわけじゃないんですよね。だから、そこで友達を作って新たに遊ぶ展開するというのはすごく難しい。お買い物に連れて行っても、お母さんは黙って買い物かごにスーパーのカゴに商品を突っ込むだけでレジに並ぶだけですよ。買い物するってことを覚えられないですよね。遊んでても遊んでて何か悪さして、どこかの家に裏から入ろうとしてても、「ほらほら、僕、危ないよ。」って止めてくれるおばちゃんはいないんですよ。ちょっと怖くて、他の子ども叱れないんですよねっていう状況、そういう時代だから。地域コミュニティの、町内会のって言ってもいいかもしれないけれど、子どもを育てる力って、すごく発揮できなくなる、しにくくなっている。でも、やっぱり子どもが世の中に出ていくために、こういう真ん中のコミュニティが必要であることには少しも変わりはないんですよね。で、その役割を誰がやっているか。その役割をどこが担っているかっていうと、たぶん学校なんですよね。地域は、大人たちは、と言ってもいいかもしれないですけども、その役割を学校に丸投げしているように思うわけです。それだけに学校がすごく大変。おうちを出て、毎日通うっていう、そういう、家を出てよそに行くっていうはじめのところから、最終的には自立をしてお仕事に就くところまで全部をお世話しなきゃいけない。それは大変ですよね、学校も、っていう状況で、しかも、そのルートが学校経由しか開いてないので、その学校経由の道を1本外れちゃうと、もう、どうやって大人になっていっていいか分かんなくなっちゃう。だから不登校が始まると大人がすごく焦るわけですよ、親が。それは学力の低下を恐れて焦るんじゃないんですよね。学校を経由しなくて一体どうやって、この子は大人になっていったらいいだろうか、自立をできるかどうか見えなくなっちゃう。そういうことなんじゃないだろうかなというふうに思います。で、つまりここで言えることは、コミュニティに居場所を見つけられなくなると、自立の道のりは急に見えづらくなるということが言えるんだろうと思います。ここら辺が、今の子どもとコミュニティの関係を表しているかなって。 で、コミュニティの役割という視点から今日の本題に戻ります。発達とか発達障害っていう問題を捉え直してみたいと思うんですね。 そもそも発達って何だろうってもう一回考えるとですね、いろんな発達の側面があります。身体の発達、知恵の発達、心の発達。身体の発達は、文字通り体が大きくなっていく。これは測れますよね。身長が何センチになった体重が何キロになった。もっとやれば、例えば筋力測定みたいな体力測定みたいなのがあるんですね。これは身体の発達です。実は知恵の発達も測れるんですね。何年生の勉強が終わったとか、知能指数がいくつだということですよね。訓練していけば、学習をしていけば、確実に力は上がっていくんです。それと似てますけれども心の発達ってのはちょっと違う感じがする。心の発達っていうのは身体、知恵の発達ともちょっと違う。僕らが子どもと、例えば1年ぶりとか2年ぶりとかって会うと、ああ随分大きくなったなって思うでしょ。それはむしろ身体も大きくなったし、もう知恵もついて生意気なことも言うようになるんだけど、何よりも心が大きくなった。大人の物の考え方とか、行動の仕方とかっていうのをするようになる。そのことですよね。それを心の発達。それっていうのはここに注目する。それって人との関わり方の発達なんです。さっきの言い方で言うと、人の心っていうのは、人の間でしか成長できない。逆にいうと、何が成長していくかっていうと、人との関わり方が上手になっていく。人との関わり方がだんだん大人になっていくということなんだろうと思うんです。これ、言葉を変えるとですね、社会性の発達あるいは社会的な発達っていうことです。だから、大人になるっていうのは、一人前の知識を身につけ、体力を身につけるだけじゃなくて、社会人としての心の発達をしていく、ということが含まれる。そこの部分を問題にしてるんだということですね。特に発達障害の場合。発達障害って知能障害じゃないでしょ。身体障害でももちろんないですよね。何の発達の障害かっていうと、心の発達なんですね。先程はじめに書いた横長の発達のゴーサインってのは、あれも心の発達を話している。で、その心の発達のアンバランスが起こる、これが発達障害、というのが私の考え方です。 すると社会的な発達とは何かですね。社会的な発達とはちょっと耳慣れない言葉かもしれないですけれど、この考え方にぜひ慣れてほしいです。社会的な発達とは何か。例えば子どもの権利条約を私達の国も批准しましたけど、その中でこういう一文があるんですね。第27条、「締約国は児童の身体的、精神的、道徳的及び社会的な発達のための相当な生活水準云々」。つまり子どもにはこういう側面で発達をする権利があるよということを言ってます。この緑にした部分ですね。社会的な発達って、これって何だ、ということです。あるいはちょっとこれを分かりやすくしたのでは、滝川一廣っていう、僕がとても尊敬する精神科医がいるんですけども、その先生がある著書の中でこんなことを書いています。育ち、つまり発達とは、養育者、育てる人との間でいろんな体験が共有される、いろんなことを一緒にやることで子どもの心が大きくなっていく。どう大きくなるかっていうと、ここですね、子どもが、人間が持つ共同世界つまり社会を一緒に生きられるようになるような歩みのこと、これが育ちだというふうに言うわけです。分かりますかね。つまり、育ちの尺度って何か、どのくらいその子が社会を、社会で一緒に生きていけるようになるか。人の間でどれだけ上手に生きていけるかっていうこと。だから、それがうまくいかない時に発達の問題、まさに発達障害ってことが言えるんだということになりますよね。でも、もう一つ言えることは、どうやって共同社会をともに生きられるようになるかっていう歩みだっていう、これは同時に受け入れる私たちの社会の側の姿勢も問われているんです。どうやって、その子どもと歩みをともにすれば、その子どもが私たちの社会にうまく入ってくることができるか。だから常に入っていこうとする、成長してあるレベルに達しないと入っていけない子どもの問題だけじゃなくて、どうやってアンバランスな子どもでも一緒に社会生活ができるようになるかっていう、それを受け入れる社会の側の姿勢も同時に問われているんだ、と言うことができるだろうと思います。 そう考えた時に、じゃあこの発達障害とはどういうことか。今日、この部分が一番お話ししたいところなんですけども、もう一回発達障害ってことを捉え直してみようよ、今までずっと発達障害ってのは定義に従って脳機能のアンバランスって考えていたけど、そんな捉え方では、きっと今の発達障害問題って捉えきれないよね。で、もっと多くの子どもが生きにくさを感じるようになっちゃってるし、そのアンバランスゆえの生きにくさを感じるようなっている。生きにくさってことは、うまく社会化していけない、社会的な発達が、そこでストップしちゃっているってこと。で、そうすると、もう1回そこを書きますね。本来の定義でいうと、発達障害というのは、自閉症とかアスペルガーとか学習障害とかADHDなど、その他も含むけども、いずれにしろ脳機能の障害。脳っていう器官の障害で、それが普通は低年齢で起こるものっていうふうに言われるんだけど、本当にそうか、そういう使われ方をしてるかっていうと、私、ちょっと全然そうじゃないと思うんですね。今の時代の中で発達障害、そもそも脳機能がずっと発達障害。今みたいな定義でやってたけど、全然見つからないんですよね。医学的にはまだ発達障害の原因っていうのはやっぱり分からない。さっきも自閉症とADHDと学習障害、分かってることは、そのそれぞれが全然違う、何て言うのかな、機能上の問題を持ってるから、到底その一つで括れるような同じ脳障害だってあり得ないんですね。しかも、脳障害であれば、今みたいな頻度っていうか、今みたいな増え方で発達障害の子が増えてくようなことはありえないんです。ってことは、それ以外のもの、うまく生きていけない、うまく生きていけなくしちゃってる要素がある。で、何か支援が必要な人がいる。そういう基準で、実は発達障害って言葉を使う方は使ってきているということです。だから、それっていうのはむしろ発達障害現象っていうふうに言ってもいいかもしれない。発達障害っていう社会現象が起きている。で、その社会現象の中では、例えば発達のバランスとか感受性とか大切なことの多様性が問題になっている。いろんな考え方をする人とか、いろんな感受性を持ってて、いろんなバランス持ってて、いろんな大切なことを持ってる人が発達障害と言われる。例えばですよ、大切なことでいうと、ASDって言われる人たち。ASDももはや今一つの病気と考えてる人はほとんどいなくて、一番重いASDいわゆる典型的な自閉症は確かに脳の障害かもしれない。ただ、ずっとそれが軽いところまで行って、普通の人に、こう地繋がりで繋がってるって言うんですね、スペクトラムという考え方ですよね。でそうすると、少し自閉っぽい考え方をする人の特徴っていうのがあって、それは脳に、脳そのものに規定されてるってのは到底考えられないですので、そういう人たちの特徴っていうのは、これは私の見解ですからあんまり鵜呑みにしてほしくないんですけども、自分の納得いくことにこだわりがすごく強い、人の気持ちとか社会的な状況とか、その日の天気とか、というよりも自分の納得なんですね。その日、どうしてもこれが着て行きたいとかってなっちゃうのが、自閉的な感受性とか大事なことを持っている人たちってことになりますよね。そういう決まり方、そういう使われ方なんだろうと思うんです。だから、一見周りとコミュニケーションが取れてなかったり、こだわりが強かったように見えるけども、実は何が違うのかっていうと、その人にとって大事なことが少し違う。とすると、その人にとって大事なことっていうのを私たちがどのくらい大事だと思ってあげるかっていうのが付き合い方といいますかね、対処の仕方ってことになる。それから例えば、その子どもの発達するタイミングの多様性、スピードとかタイミングです。これもあの、自閉の子ども達と発達に付き合っててよく思うことなんですけども、普通の子どもが、例えばみんな、子ども達の他の大勢がどうしてるのかなとか、みんなどんな気持ちがするかな、みたいに感じる時期、それがすごく関心がある時期っていうのがあるでしょ、幼児期なんだと思うんですけども。で、仲間遊びをするようになる、仲間に入っていこうとする。その後ピークを迎えるのが学校に上がるくらいの時で、だから学校教育がうまくいくわけでしょ。みんなで一緒にやろうって言うと、みんな子どもがついてくるわけで。ところが、自閉の子ども達っていうのは、そこにちょっとテンポの違いといいますかスピードの違いがある。つまり、みんなが大勢を気にするようになっているところに、大勢がどうでもいいんですよね。だから、みんながやる、みんながやってるからっていう、それが僕はやる理由にならないです。「みんながやるって言っているから君もやろう。」って言っても、「それ僕したくないもん。」で終わっちゃうんです。ところが、そういう子どもでも、ある時期、小学校のどこか中学のどこか、「ところで、みんなってこういう時、どうするんだろうな?」ってことが疑問になり始める。あるいは、「これやったら、みんなって、どう思うかな?」ってことを気にするようになる時期が来るんですね。つまり自閉的だったのに、そこら辺の周りに対する、周りの感情に対する感覚がすごく鈍いって言われてる子どもが、決して発達しないわけでもない。ただ、みんなとタイミングとかスピードが違うんですよねっていう子どもに僕らはよくお会いします。だとすると、援助の仕方・支援の仕方って変わってくるじゃないですか。そういう対人的な関心が薄い子どもっていうんじゃなくて、この子のタイミングでどうやってそれを、その子が関心持てるようになったタイミングの時に、どうやって対処してあげるかっていう関心になってくるんだろうと思う。あるいは発達する環境の多様性ですね。さっきも言ったように、家庭の環境が様々だと子どもの発達って様々になってきます。それから周りにいる子ども達の環境が様々だと、子ども達の発達も様々な形になっています。そういったものを全部計算し尽くすことはできないんだけれども、そういう中で、いろんな多様な子ども達、いろんな考え方とか感じ方とかする子ども達が出てきても当然っていうふうに考えないと、今の子ども達の多様さって言いますかね、何か一見、てんでなことをてんでにやってるように見える状況っていうのがなかなか理解できないし対処がしきれない。で、その家庭の環境の多様さってことに関して言うと、今度は、その親御さんたちがどういう育ちをしてきたか、どういう周りに支えられてきたか、っていうことも全部関係してくる。だから、どれか1つだけ、こう切り出したけれども、その子ども独りに発達障害って名前を付けて済むような問題じゃないんだろうなという気がする。総じて言うとその人のあり方の多様性ですよね。その人のあり方の多様性のこと、僕は“厚み”っていう、この間友達と話をしていて、この言葉に行き当たって、「そうだ、“厚み”だよな。」って。人が成長するっていうのは、その人の存在が厚みを増していくことなんだよなと思って。ちょっと今度、その言葉を借りるようにしたんですけども、その厚みも多様さだったり、いろんな厚みを持っている人がいる。どうやって厚みを獲得していくかっていうことがあって、それが、その、いろんな子がいるよねっていうことが、実は発達障害っていうことの実態に近いんじゃないかと思うんですね。そうするとそれに見合った支援ということがあります。時代や文化で普通は変わるっていうのは、これ先程ちょっとお話ししたこと、モンゴルの子どもみたいなことでもそうですし。僕、今69歳ですけども、僕の小学校時代っていうふうに言ってもいいかもしれません。同じクラスに今で言うと、きっと発達障害だよねという子が2、3人普通にいたんですよね。私のクラスに特に多くじゃなくて。そういうご記憶持ってらっしゃる方もいらっしゃると思うんですよ。じゃあそういう子どもが特殊教育とかってあんまり受けられなくて、知能は普通にあったりするので、特殊教育の対象にならなくて。で、こう、いろんなところから置いてかれちゃったのかというと、そうでもなくて、ちゃんと、僕らと同じような高校には行かなかったんだけども、それなりに仕事を身につけて、今、八百屋さんやってたり、靴屋さんやったりするわけです。で、つまり、そういう文化、そういう時代の中であっては、そういう子どもも普通の中だった、そういう育ち方も普通のうちだったっていうことですね。そういう普通として育てられるのと、そういう子ども達がこう切り分けられてと言いますか、特別だ、何かこう特別なことが起こってる、みんなと違うっていうふうに考えて、特別の枠を用意していくっていうのが今の生き方だと思うんですけど、どっちが幸せかなっていうのはよく分かんない感じがするんですよね。必ずしも今の方が幸せだとも言い切れない感じがしますし。そこでは、あり方の多様性、その多様性の話をこう繰り返ししてますけども、いろんなあり方してもいいよねということが見えにくくなっている。つまり、私達がすごく単純な1本の物差しでしか子どもを測らなくなっていて、その1本の物差しの中で言える規格外と言いますか、うまくやれない子ども達っていう、そういう把握になっているんじゃないかなと思います。 ちょっと、それ、うまく説明できないんですけど、例えばこういうことです。これ横軸が、“グレーゾーン”って先に出ちゃったけど、いろんな子どもがいて、真っ白から真っ黒まで。と、ここら辺がグレーになっていく。これをグレーゾーンの子ども達っていう、そういう絵なんですけどね。でも子ども達の発達のばらつきにそんなに明確な段階があるわけないですから、グレーゾーンっていうのはあくまでも、この間を切り取ったっていう、この線の引き方って、すごく恣意的なんですよね。周りの対応力とか手のかかり方とか、このくらいの子どもまでは普通っていうふうに扱ってもOKだろうっていう、そういう見通しで、このグレーゾーンを決めてるっていうふうに言ってもいいかもしれない。そうするとね、こっちの、あんまり支援が必要ない子どもっていうふうに見える子どもも、もうグラデーションですから様々だっていうことですよね。真っ白の子どもなんてほとんどいない。グレーゾーンって言われる子どもの中でも果てしなくいろんな子どもがいるってことになります。これって僕らが子どもに1本の物差し、“doingの広がり”って置きました。つまり“doing”っていうのは、その人のパフォーマンスややれること、能力とかいえることとか、そういう表に出すものの広がりが、真っ白から真っ黒まであって、その分布を言ってるだけ。その物差ししかない。その物差しだけで子どもを測ろうとするから、ここにグレーの所が存在する。そういうことのような気がするんです。つまり、さっき、その存在の多様性、あり方の多様性って言ったのは、こっちの軸じゃなくて、こっちの軸の問題なんです。だから、同じように見える子どもでも、実はいろんな子どもがいるよね。いるけど、この白黒っていう物差ししか当ててないからグレーにしか見えない。分かりますかね。白黒っていう物差ししか当ててないからグレーしかない。犬に詳しい方がいらっしゃったら教えてほしいんだけど、犬って確か色覚があんまりないんですよね。そうだとすると、犬にとってはいいですかね。ちょっと絵を一回だけ動かしますから見逃さないでくださいね。この絵とですね、こっちが、“beingの広がり”です。この“beingの広がり”っていうのは見えないわけです、色覚がない人にとって。この絵と、そうするとこの絵と、どうでしょうか。あんまりきれいにいかないな、色で区別されてるんですけども。この絵とが同じに見えるはずなんですね。分かりますかね。色という、いろんな多様性ですよね。色というのが象徴するのは“being”の多様性なんですけれども。“being”の多様性を、あり方の多様性を範疇といいますか、見ようとしない限りは、人の能力で考えると、そういう“doingの広がり”でしかないから同じに見えちゃう。で、こういういろんな色があるんだ、いろんな色合いがあって、ということで見ると、これ、先程のグレーゾーンなんですけど、グレーって単純なグレーじゃないでしょ。一番その色が濃く表れるっていうかね、その“らしさ”の部分が一番濃く表れる所は、実はそのグレーゾーンと呼ばれる所、今の発達障害の子ども達の発達のばらつきの一番多い所なんだろうということです。これが、さっきの所に戻りますけれど、そのあり方の多様性という言葉の言わんとしてる所。 それから違う考え方、支援のことでいうと、“発達的なマイノリティ”。これも耳慣れない言葉だと思うんですけれども、私は発達障害の本質ってこういうことかな、というふうにも思うんですね。つまり、発達的な少数派っていうことです。だから、みんなはこういう発達の仕方をするけれども、ある人たちはそれとは違う順番で、違うやり方で、違うスピードで発達をする。それも多様性の一部として考えてもいいんじゃないかということです。そうすると当然支援のあり方も変わってくるし、社会の中で、そういう人たちをどうやって位置づけていいかも変わってくると思うんですね。少数派なんですよ。少数派なんで、今の世の中は多数派向けに多数派の人が作っているので、やっぱり少数派の人にとって、すごく生きにくいわけです。でも、その多数派にとって便利な社会を作っちゃったんだったら、その多数派の人には、少数派の人も使いやすいような社会にしていく義務があるように私には思うんですね。“発達的なマイノリティ”って新語ですけれども、新しい言葉ですけども、例えばこれ、性的マイノリティっていうと現代的な話題でしょ。で、昔は性的マイノリティなんて、全く何て言うのかな、範疇になかったというか考えられてもいなかったわけですよ。でも、そういう人たちが認識されるようになった。それこそ、あり方のバラエティ、あり方の多様性として、そういう人たちもいてもいいじゃんっていうふうに思うようになった。見えてきた。先程のこの虹色が見えてきた。そうすると、その時初めて、じゃあどうやって一緒に生きていたらいいだろうか、ということの工夫をみんな始めるわけじゃないですか。で、東京都なんかの、例えば性的マイノリティのパンフレットみたいな、すごくいいパンフレットができている。それをですね、同じパンフレットを持ってきて、皆さんやってみるといいと思うんですけども、一言、その“性的”な部分を“発達的”に置き換えるわけ。そうすると、それは、そのまんま発達障害の人に使えるんですよ。違う発達的な課題を持っていたり、こう、自分の居心地のよさを持っていたりする人がいる。ただ、今の社会そのものがマジョリティ、多数派、性的に男と女しかなくて、そのどっちかにすっきり分けられて、心の性と身体の性が一致してる人たちが確かに多いんだけれども、その人たちのために作っちゃった社会っていうのが、そうじゃない人ですと、すごく生きにくくなってるっていう事実がある。全く同じ構図ですよね。あるいは、ちょっと見方を変えると、人種的なマイノリティもそうですよね。日本って、それでもまだまだ違う国籍の人が多くはないから、日本人だけはすごく生きやすくできてるけども、まあ、最近いろんな形で外国人の人が入ってくると、それなりに生きにくさがある。もちろん、一緒にやっていきたい、やっていこうっていう努力もあるんですけれども、それこそ方々で歪みが出るわけでしょ。まあ、それが入国管理事務所のところの事件になったり、人種的な差別になったりするわけですよね。で、その問題とすごく似てる。すごく近いものを感じる。そうすると、その発達障害っていうものの考え方を、そうシフトしていくことで、援助の仕方、どうやってマジョリティじゃない発達の仕方、ものの考え方をする人と一緒にやっていけるかという工夫は、まだまだいろいろできるような気がします。 さて、子どもの育ちのためのコミュニティの役割というのを、もう少し突っ込んでお話ししてみたいと思います。そういう中で、コミュニティが発達に関わるっていうのはどういうことかっていうと、これ、今日繰り返しお話しています、人間って共同で子育てをする生き物なんですね。人間の心の発達というのはコミュニティの中で育まれる。その時にコミュニケーション、よく発達障害がコミュニケーション・ディスオーダー、コミュニケーションの問題だっていうふうに言われて、コミュニケーションがうまく伸びていかないんだっていうふうに言われるけども、コミュニケーションって何かっていうとコミュニティの疎通手段です。コミュニティっていうのは、言葉の語源からいうと、大事なものを共有する人たちです。何か大切なものを共有してる人たちがコミュニティなんですね。地域コミュニティというのは、地域っていう大切な共同の財産を共有しているからコミュニティ。それから学校コミュニティっていうのは、一緒に学んでいくっていう、大事なことを共有してるから学校でコミュニティ。そうするとそこでは、そのコミュニティの中では、その大事なものを大事にするための疎通手段、やりとりをする手段が生まれてきている。それがコミュニケーション。言葉の元からするそうなんですね。そうすると大事なものを共有する人がいないとコミュニケーション能力というのは発達しないですよね。しばしば発達障害がコミュニケーション障害だというふうに言われますけど、それはコミュニケーションの能力の障害というよりも、同じものを大事だと思う人たちがなかなかいない、同じものを大事にしてもらえないということで生じる問題だっていうふうにも言える。だから、よく不思議に思うんだけど、少し自閉的だって言われる特徴を持った子ども達が、学校でとか、友達遊びとかみたいなところで、なかなか言葉がうまく伸びてこないんだけれども、おうちへ帰って、ゲームやってオンラインゲームとかでチャットになると生き生きと話をしている。あれって共有してるものが違うんですよね。そこで共有してるものがあれば、かみ合えば、それを共有するためにはコミュニケーションの手段ってどんどん発達していくんです。むしろ問題は、彼らが現実の学校での友達の間では何か気持ちが共有できるものがなかなか見つからないってところにあるかもしれない。そう考える。そうすると、コミュニティを、それを支える大人たちの役割っていうのはまさにそこにあるんですよ。何か大事なものを共有する、子どもが育っていく、その子が育っていくというのは大事なことだよねっていうふうに周りがみんな思ってる時に、それが、その子どもにとっての自分の育ちを支える大事なコミュニティになる。そうすると、そこでは当然共有できるものというのがあるわけですし、周りが自分の育ちに関心を持っている。そこでやりとりをする余地といいますか、やりとりをする中身というのが生まれてくる。だから、コミュニケーション能力を鍛えようとかいうことを考える前に、どうやってその子の育ちを大事にしようと思うか、そこをコミュニティが関わり方としてやっていく必要があるんじゃないかなっていうふうに思います。 それから、コミュニティが子どもの育ちの助けになるためにはどうしたらいいかという話を少しさせていただきたいと思います。今もお話したことですけど、そういう意味で、このコミュニティが助けになるために必要なことっていうのは、まず子どもの育ちが大事なものとして共有されてるってことですよね。どれだけいい教育機関とか療育機関を作るかってことじゃないような気がする。作るのは大事なことだとしたら、その作る人がどれだけ子どもの育ちって大事だよねっていうふうに思えるか、で、そこで共有できるものを作るかってことだと思いますし、そのために、それを大事にするために居場所、子どもがいてもいいという場所を作っていく。“居場所作り”ってことは、僕もこの仕事やりながらずいぶん思うんですけども、確かに例えば学校と家庭、これ無条件に居場所ですけれども、それ以外に放デイとかね、児童館とか学童とかって居場所を作るんだけれども、それは子どもがいてもいい場所であって、子どもがいたいと思う場所かどうかって別なんですよね。子どもが自分で選んでそこに行きたいと思う、例えば学校が終わった時間をそこで過ごそうと思う所があって、初めてそれが居場所になる、ということです。そこに焦点を当ててあげる必要があるんじゃないかと思うんです。それこそ放デイも学童さえもなかった時期に子ども達が、学校終わってどうしていたかというとしきりと道草を食っていた。寄り道をしてたわけですよ。寄り道って、自分がいたいと思う、行きたいと思う、やりたいと思うってことを選べないとできないんですよね。寄り道、それはそれは大事で、子どもによっては、もしかすると、その寄り道をするために学校に行くっていうか、帰りに寄り道したいから学校へ行くか、みたいな子どももいたんで、私もその1人だったんですけども。というか、学校行かないと帰りがないから寄り道できないですからね。寄り道すると初めてそこで、もう1回お家へ帰る、そろそろ家へ帰ろうかっていうことが出てくるんですね。その時に帰んなきゃいけないっていうだけじゃない、お家っていうのが初めて自分が帰る所になっていく。つまり学校もお家もそういう寄り道ができて初めて自分が行きたい所っていう、自分が選ぶ所になってくる。そういう役割があると思うんですね。そういう意味での居場所が地域に提供されているか。だんだん寄り道っていうのは“寄り道禁止”みたいになっているでしょ。子ども達がたむろしてできる場所っていうのはどんどん潰されていくでしょ。何となく集まっていくっていうのがどんどんできなくなっていくわけですよ。それって結局、子どもの育ちの場所全体から子どもの居場所を奪っていることになりはしないかなっていうことを考えてみる必要があるような気がするんですね。今の、そうですね、子ども達だけじゃなくて、もう、そういう時代が結構続いてますから、青年たち、若い大人たちもそういう居場所がない状態を経て、経験して大人になってきちゃった。で、そうするとなかなかどういうふうにすることが自分たちの子どもにとって居場所を提供してあげることなのか分かりづらいと思うんですよね。そこでコミュニティそのものが子どもにとって、こういうことが大事なんだよっていう信号を出してあげることが必要だと思いますし、そのためにも、そのコミュニティそのものにですね、いろんな人がいる、いろんな人がコミュニティを成り立たせている、学校コミュニティであれば、先生にいろんな人がいるってことでもいいんですよ。ただ、その地域で言えば、地域のコミュニティの中に、地域の人々の集まりの中に、いろんな人がいて、その中で初めて子どもが、いろんな人っていてもいいんだっていうことを思いながら育っていける。そういったものを作っていく必要があるように思います。それはこれですね、コミュニティの中に、様々な人たちによる育ちへの助けがある、そういう状況を、そういう条件を、といいますか、そういう地域を作り上げていけたら、どんなにいいかなということを思います。 今日最後に、お話の一番最後に、皆さんからいただいた質問についてお答えをする時間というのを15分20分作りたいと思うので、そろそろ私の話そのものはひとまず閉じたいと思うんですが、最後のお話は、この“well-being”という話なんですね。急に何かと思われるかもしれません。“well-being”って言葉はですね、元々は“福祉”というふうに訳されていました。“良いやり方”っていうことですよね。さらに遡るとですね、戦後第2次大戦後、間もなく世界保健機構が「WHO憲章」というのを作って、その中で、もう戦争で世界中がズタズタになって、そういう中で、もう1回、健康っていうことを考えるということを始めようという時に健康の定義をするわけです。病気を定義するんじゃなくて健康を定義する。その定義の中に入ってくるんですね、この“well-being”という言葉が。私は、実はその言葉で初めて、その「WHO憲章」で初めてこの言葉にお目にかかったんですけども、有名な言葉なんで、ご存知の方も多いかもしれませんけども、“健康というのは病気とか障害がないっていうことではなくて”と言うんですね。ではなくて、“身体的にも精神的にも社会的にもwell-beingが保たれていることを健康と言うんだ”って言うんです。そういう使われ方をします。だから、その時は“健康”というふうに訳されるんですけども、その後、いろいろな使われ方をするようになって、日本も批准した「子どもの権利条約」っていうのがありますけども、この権利条約の中でも、この“well-being”という言葉が何度も出てきます。その時には“福祉”という訳され方をするんですね。で、ただ、その“福祉”という訳され方って、僕はちょっと誤解を生む可能性があるような気がして。その前後に「国は福祉機関をいっぱい作らなきゃいけないんだよ。」っていうことをいっぱい言われて、その時の“福祉”って言葉は“welfare”っていう言葉なんですね。で、そのすぐ近くに「子どもはwell-beingを保たれる必要があるんだ。そのために、国はいろいろなものを作らなきゃいけないんだ。」という言い方がある。そこも同じように“福祉”って言葉で訳しちゃうと、何か福祉機関の福祉のための施設とか制度を作れば、子どものwell-beingって保たれるような気がしちゃうわけですよ。同じ“福祉”って言葉だから。でも実は全然違うことを言ってるんです。で、その“well-being”ってことで言いたいことっていうのは、まさに今日のお話でいうと、“beingがよく保たれる”ってことなんですね。子どもが生きててよかったとかね。自分でよかった。これが“being” です。“being がいい状態”ですよね。それが子どもの権利だっていう言い方なんです。全ての子どもが、自分は生きててよかったとか、この自分でよかったっていうふうに感じる権利があるという、それを大人が保障しなきゃいけない、ということなんだけども、今度は、その福祉機関を作らなきゃいけない、ということとは違って、一体どうやったらいいか分かんないわけですよ。そういう意味で、具体性がなかなか見えてこないっていうのが“well-being”って言葉の課題なんだけれども。だから、“well-being”って言葉を、僕は単純に何か日本語に置き換えちゃうんじゃなくて、そのまま使いたい。“well-being”という言葉として使いたいと思いますし、敢えて訳すとすると、その“being がいいこと”、もっと敢えて訳せば、“自分でいることの居心地の良さ”なんですよね。自分っていいもんだ、自分って悪くないなっていうふうに思う、その自分の居心地の良さが、この“well-being”で、それを例えば発達障害の子ども達や発達障害の人たちにどう感じてもらうか。なかなかそのwell-beingを感じにくい人だっていうのがそういうことですよね。それが生きにくさということ。発達障害の人が、僕ってこういう特徴を持っていて、こんな人なんだけど、それでもよかったなって思えるようなコミュニティって何だろう?そういう順番でものを考えていく必要が僕はあるような気がするんです。これはね、それを難しく感じるのは、私たちがその“being”っていう言葉を使い慣れていないっていうか、考え方に慣れていないからで、“being”って言葉が感情に入ってくるというか、考えに入ってくると、もう少しいろんなことが違う見え方をしてくるんだろうと思うんですね。“being”って言葉を少し整理しておくとこういうことになります。be動詞の名詞形です。現在分詞なので元々の意味で言うと“いる”ってことですよね。“私のbeing” って言うと、“私がここにいる”っていうことそのものだったり、もうちょっとbe動詞で補語を取って、“私がどういう人間であるか”ということを表すので、“他の誰でもない、その人であること”、“私のbeing” って言うと“私が存在する”というだけじゃなくて、“私は他でもない田中哲っていう人間だ”ということを意味する。そういうことと共に、どういう人間かも表しますので、その人らしさ、その人らしさですね。その人らしい感じ方とか、あり方とか考え方とか。ちょっと分かりにくいかもしれませんけども、例えば、“being”に対して“doing”があるっていうふうに言いましたよね。今日、皆さんここに来て下さって、話を聞いて下さっているけど、私が話している、この言葉とか身振り手振りとかスライドっていうのは私の“doing”なんですね。だから皆さんは私の“doing”に接してるっていうか、私の“doing”を目撃している。でも、それが例えば、じゃあ、この同じ内容を皆さんが受け取る、キャッチするのに、ここで、この会場でお聴きになっても−今日、録画して放映されますけれど−それを見ても、全く質的に同じかっていうと違いますよね。それは、私が話し手として皆さんがいる時といない時とでいろんな話をするので、すごく実感あるんですけれども、聴いて下さっている方が目の前にいる時の話というのは全然違うんです。それは何が違うかっていうと、皆さんの“being”なんです。皆さんがいるっていうことが違う。皆さんが別に何かしてくれるわけじゃないんですよ。皆さんがいるってことが違う。皆さんがいるっていう、いらっしゃる皆さんが私の言葉、“doing” を通じて、何か私の“being”を感じてくれるんです。“私らしい”ってことを感じてくれるわけですよ。そこでやり取りが起こる。これはコミュニケーションですよね。だから、この場所でもコミュニケーションが起こるということが、私がここにいる理由、ここにいてよかったなと思えるような理由なんです。分かりますかね。それが、その“being”と“doing”っていうこと。だから事に依ったら、私の“doing” としてのお話には、その時の、今日の気分とかノリとかやる気とかっていうのも入ってくるかもしれない。私の行動の背後にあるものなんですけども。もっと言うと、その次ですかね。これですね、私が良い状態。自分の“being”の良い状態。つまり、私がいてよかったな、今日お話しできてよかったなと思うかどうか。良い状態を維持するために必要なのは、人との関わりなんですね。人との関わりというのは、同じく“being”持った人が目の前にいるっていうこと。そういう形を通してじゃないと、私の“being”っていうのはきっと上がらないんです。これはさっき出てきたと思います。人の“being”、人のよかったと思う気持ち、自分でよかったと思う気持ちっていうのは、自分の中で絶対自己完結しないんですよ。人にあなたと会えてよかったとか、君のそれすごいねとかって、それを評価してくれたり、関わってくれたりする人がいて、初めて自分の“being”が上がる。少し発達的なことを幾つか言いますと、ここの一番最後のところです。新生児期のbeingの良さっていうのは母子間で継承されるんですね。で、さっき「よしよし。」の話をしましたけども、無条件で引き受け続けてくれるお母さんっていうのがいるから、新生児の“being”っていうのは良好に保たれる。それをやりそこなっちゃったのが虐待を受けた子ども達なんですけども。これもまた別の機会に扱いますけれども、じゃあ、そういう小さい時期に“being”の、良い“being”の受け取りをやりそこなっちゃった人が、永遠にその人の“being”っていうのは望みがないのか、低いままなのかというとそうではないんですね。ちゃんと人間の子育てシステムというのは、それを補うことができるようになっていて、そのために、人に預けても育つことができるようになっているんですよね。だから、それを曰く、昔のことわざで“親はなくても子は育つ”。たぶん昔は、今以上にもっと頻回に人の手を借りた子育てというのがされていたわけですよね。ある時期に里子に出すと、農繁期なんかはお母さんが畑に田んぼに出ずっぱりで、まとめておばあちゃんが面倒を見ているとかですね。乳母さんからおっぱいを貰うとかっていうことが平気でされてたわけでしょ。貰い子も普通にあったわけですよね。そういう文化がだんだん変わってきちゃって、お母さんがいろんなことを独りでワンオペでやって当然みたいになってきちゃったところに、このお母さんからの良いものを、お母さんから貰えないと、その人が永遠にこの良い“being”からはぐれちゃうみたいなことが生まれるようになっている。本来は、それっていうのは母子間でできない時は、コミュニティが肩代わりしてたんです。コミュニティが良い“being”持っていれば、こう、コミュニティが子どもを育てるという共通したもの、共通の価値観を持っていれば、コミュニティで十分できていたんですね。そういうものだっていうふうに“being”について考える。この一番上のことっていうのは、この話を私が臨床的に対人的に、人の間でする時によく使う言葉なんですけど、誤った“doing”っていうのはあり得る。これをしちゃまずかったよねってことは、間違った行動とか言葉っていうのはあり得るんだけど、間違った存在ってありえないでしょう。その人らしいってことが、それは間違いだよね、あっちゃ駄目だよねってことはあり得ないんですよ。だから、どんなまずい言葉、失敗とか失言とか責められるべきことでも、必ずそうしちゃった訳がある。その訳の部分は誰も責められない、っていうことですね。で、それが人の“doing”を介して接しながら、人の“being”にアプローチしていく手段なんだろうなというふうに思います。 そろそろ時間ですので、最後にこの1枚絵を描いて、まだちょっと漠然としているかもしれない“being”、“doing”っていう考え方を、僕らが生活の中で、特に、僕達の場合だと子どもとの接し方の中でどんなふうに活かしていくかっていうお話をして閉じたいと思います。縦軸に“being”を取り、横軸に“doing”を取るんですね。そうすると、こう“high-doing”、“high-being”の場面というのはここに現れるようなんです。僕らは、その子どもについてイメージするんですけれども、子どもについて、子どもが、その一番子どもらしい時をイメージしてって言うと、大抵の人はここをイメージするんです。右上ですよね。子どもが生き生きと元気で何て言うのかな、輝いている状況をイメージする。でも、いろんな状況があり得る。“doing”も良い時もあれば悪い時もある。“being”もよく感じられる時もあればそうではない時もあるってことを考えると、右上の所っていうのは本当にその生活の一部なんです。そこにいる時の子どもってどんなかっていうと、頑張っている、周りを巻き込んで、何か周りに働きかけて、一緒にやろうよ、それから好奇心丸出しにしてね、「何それ、教えて。」、何かできたら「ねえねえ、見て見て。」っていうのがここにいる子達なんですね。ただ、子どもっていろんなアクティビティ、いろんな関心を持っているし、その子どもがやりたいと思ったことの半分ぐらいっていうのは、どうも大人がやってほしくないことなんですよね。すると、それが分かっちゃうと、判明して大人に「ダメでしょ、それ。この間も『ダメ!』って言われたじゃない。」とかって言われると“being”が落ちちゃうんですね。そうするとここに来るわけです。そうすると、まだ能動的に、自分のことを周りに分かってよ、とアピールする力は強いので、自分の“being”が下がっちゃうから、イライラしたり、反抗したり言い訳したり、他責的になったりという子ども達がいますよね。これもだから、すごく自然なことなんで、当たり前なんですね。で、ならば、この言い訳したり何だりという、そういうアピールも通用しないってことがわかると、それを諦めちゃうんですね。自分の我を通そうとすることは諦めて、“being”も低い、“doing”も低いという状態。小さい子なら、きっとここでベソかいたり、拗ねたりいじけたりするんだけども、もうちょっと大きい子だと諦めたり、孤立したりするでしょう。「ほっといてくれ。」って、人との関わりを絶とうとするんですよね。さて、ここが問題なんですね。左上です。“doing” は下がった。つまり、例えば飽きちゃったとか、疲れちゃったとかいう時ですよね。することが無くなっちゃったみたいな。で、その時に、なおかつ“being”が下がんない状態っていうのがある。実は、この絵を描こうと考えていた時にヒントくれたのが、学校の先生、支援学校の先生で校長先生だったんですね。先生曰く「ねえ、田中先生ね、子どもって学校でのんびりしてることってあんまりないんだよね。なぜだろうね。」っていう話だった。確かにそうなんですね。子どもが学校でのんびりしてきた、今日はのんびりした良い学校だったっていうことはあんまりない。つまり、その学校っていうところが“high-doing”思考なんですよ。やって何ぼ、失敗してもいいからやって何ぼなんですね。つまり価値観そのものが“doing” が高い方に寄っているんです。なのでこっちへ来て、なおかつその時に“being”が下がらない、評価が高いってことがあり得ないんですね。ただ、ここにいる子ども達っていうのも結構大事で、じゃあどういう状況かっていうと、ゆったりしてるとか、のんびりしてるとか、まったりしてるとかっていう時ですね。これも、たぶん子どもの生活、子どもの心の動きとしては当然あることで、ここが大事。なぜ大事かという話をちょっとしたいと思います。うんとね、例えば、その子どもが学校にいる、写真も出しました。元気な子ども、ちょっとイライラしている子ども、すねてる子ども、まったりしている子ども、こんな感じですよね。それぞれあると思うんです。でね、今、子どもがここにいるでしょ。例えば、のんびりしてる、何かだらだらテレビを見てるみたいな。そうすると大人はどう感じるかというと、ここを子どもらしいと感じるので、こっちへ行かせたいんですね。「ほら、テレビばっかり見てないで、表で遊んできたら。」とか、「宿題終わったの?」とか、「じゃあ、暇ならちょっとお手伝いしてよ。」とか言うわけですよ。考えてみてください。今の、その声掛けって家の中でよくある声かけなんだけれども、“doing”に偏ってません?子どもの“doing”の指示を出しちゃう。子どもの“being”に全く触れずに“doing”の指示を出しちゃうんです。そうするとどうなるかっていうと、つまり、そういう刺激をこっち側からするでしょ、すると子どもの気持ち、こっちへ下がってきちゃう。で、子どもはどんなふうに言うかっていうと、「せっかく今宿題をやろうと思ってたのに、お母さんが言うからやる気なくなっちゃったじゃない。」とかっていうことを言うわけ。これは、子どもの言い訳のように、屁理屈のように聞こえるかもしれないけども、あながち嘘でもない、屁理屈でもない、本当なんだろうなって気がするんです。つまり、その時の“being”の良さっていうかね、ここにいる“being”のまったり感みたいなことを無視して、“doing”だけ指示をするでしょ。で、それを「はい。」ってやるとやろうとすると、親の指図に従ったとか、何か命令に従ったとか、支配されたみたいに思うわけですよ。支配はされたくないですよね。そういう声掛けされることだけで“being”下がるんですね。「また言われちゃったよ。」みたいに。そうすると、能動的になるけど “being”も下がるから、ここに来ちゃうということが起きているんじゃないかな、というふうに思うんです。分かりますかね。じゃあ、どうやったらここに来てくれるんだろう。 これは振子の絵ですけれども、私は、その子どもの気持ちって振り子みたいなものだと思っていて。どういう振り子かって、まず真ん中の中心は年齢相応なんです。で、右側が背伸び方向、左側が甘えん坊方向ですね。この振り子の絵の言いたいことは何かって言うと、子どもって年齢相応のことをしているってことはまずなくて、半分は背伸びをして半分は赤ん坊やってる。で、なんで背伸びが必要なのかっていうと、子どもの世界って冒険の連続ですから、新しいことをやってみない限り成長はないんですよね。でも、冒険をしてみるっていうのは失敗しちゃう可能性があるので、失敗しても大丈夫、という保証がない限り冒険はできないんです。その失敗の可能性を保証してくれるのが、実は、この赤ん坊方向の揺れで、赤ん坊っていうのは、要するに困ったら泣けばいいですね、泣きつけばいい。泣きついちゃうってのいうは、さっきの0歳児じゃないですけれども、何もできない自分というのを表現しちゃうわけですよ。お手上げ。それも、そこを支えられていて初めて冒険ができる。振り子の原理に戻って言えば、こっちへ冒険ができるために、背伸びができるために必要なエネルギーってどこから来ているかというと、こっちに揺れるところから来ている。ということです。だから、子どもって気まぐれで、できることでもやろうとしたり、やろうとしなかったりしますよね。大人としては「どっちが本当なの?あなた、やれるのやれないの?」って聞きたくなるんですけども、どっちも本当。やりたい時もあるし、やりたくない時もあるのが子どもの全体で、つまりは振り子の全体が全体だということです。このことを考え合わせるとですね、こういうことになります。いつも、この能動性の上を子どもの振り子って揺れるんですね。で、ここにいつも留まっていられればいいんだけれども、いつも、ここにいられるわけではなくて、時々うまくいかないことが当然起こるので、ここに落ちてきちゃう。落ちてきちゃった時に、この間を揺れるわけです。そうすると、イライラしているか諦めたり拗ねたりしているか。で、この間を揺れている限りは何が起こるというと、孤立しちゃいますから、周りからのコミュニケーションを絶っちゃうので、思い出してください、人と関わらなければ絶対に“being”って上がんないんですよ。なので“being”が上がってくるめどがないんです。その時の子どもの“being”をうまく上げてあげる。つまり、ここを行ったり来たりしている限りは、子どもがここを右往左往してるだけで上がんないんですけども、大人が働きかける、ここに1つ働きかける、その落っこっちゃってる気持ちを理解してあげる。そこの“being”に焦点を当ててあげるってことがあって、初めて子どもの気持ちがここまで上がってくれる。そういうやりとりができたらいいなということですね。そういうやりとりを、これは親というだけじゃなくて、コミュニティのレベルで、周りを取り囲む大人がしてあげるということで、その子どもの“well-being”という、ちょっと分かりにくい課題っていうのが実現するんじゃないだろうか、というふうに思います。 以上がお話で、少し長くなっちゃいました。ここまでにしたいと思います。 (質問への回答) 少しいただいた質問が、事前にいただいた質問があるんで、今のお話と絡めてですね、そのお話をして閉じたいと思います。 8つ質問いただいたんですけども、こんなことがあります。 発達障害とは先天性と後天性のものが、どのように絡み合っているのか知りたいというお話。実は、この質問が、ちょっとベースにあって今日のお話全体を考えたところもあるんで、これの答えは今日の話全体になるんですね。先天性のものっていうのは確かにあって、もう昔ながらの発達障害。自閉症だったり、多動だったりするんだけれども。現代の発達障害っていうのは、それ以外のもの。後天性の要因とか、もう本当に後天性のものである、本当に完全に後天性のものの典型が、いわゆる愛着障害っていうか、虐待の子ども達に生まれる発達障害的な行動なんですけども、今では、現代では、すごく複雑に絡み合っている。現在増えてきたって言える分っていうのは、むしろ後天性の部分の方が増えてるんじゃないかと私は思います。というのがこの答えになるかもしれないですね。で、先天性のものっていうのは、ある意味で、それに付き合っていくしかないんだけども、後天性のものっていうのは幾らでも防げるといいますか、発生を少なくすることができるし、先天性のものであっても、その人達がそれを持ちながら生きるということが苦痛じゃないようなコミュニティを作るということを幾らでも、たぶんできるんだろうと。たぶん、そこのところに焦点を当てて、これからの支援ということを組み立てていかなきゃいけないかなっていうふうに思います。 薬の依存について、というご質問があって、このご御質問に関しては、さっき途中で出てきた依存症のことを言ってるのか、それとも普通に使う薬の依存性について言ってるのか、ちょっと分かんなかったんですけども、どっちも関係あるとして言うと、依存症的な問題で言うと、今の薬の、子ども達の薬依存の結構大きいところは、さっきお話した鎮咳剤みたいな、鎮痛剤とか鎮咳剤ですね。あんまり僕も試したことはないんですけれども、飲んでそんなに気持ちがいい訳じゃないんだと思うんですよね。でも多分に、その、ある種の流行でしょうかね、言葉につられてやっているようなところが多分にあるように思います。もちろん、全く薬理作用がない訳じゃないんで、気持ちはよくなるだろうと思います。けれども、本当に依存症を起こすほどかどうかというのはちょっと分かんないところがあります。今手に入る、何かいろんなネットでいろんな薬が手に入るようになったんで、そこから薬入手していく子ども達もいると思います。それから治療で使う薬の依存性ですけれども、もちろん、ある種の薬っていうのは依存性があって、一番典型的なのが多動症で使う、使われてたリタリンという薬の依存性なんです。これは依存性が問題になって、やっぱり、その容易に手に入るような市場を作っちゃったっていう、あんまりよろしくない業者さん達の問題もあって、一時かなり社会的に問題になりました。それで今かなり厳しく取り締まられるようになっていますので、覚醒レベルを上げる薬の依存性、依存症に関してはあんまり問題にならなくなってるんじゃないかと思います。実はすごく問題なのは安定剤とか睡眠剤とかっていう薬の長期連用なんですね。不安があるとどうしても抗不安剤を出して、それを飲めば安心できるので、長期的に使うようになって、子どもでも同じでで。出す方も一回出しちゃうとわりと安心して出し続けるので、無くては生活ができないようになっていく子ども達ってのは、結構、もちろん大人も多いんですけれども、と思います。でも、そういう薬が発達途中にある子どもにとってすごく良くないことも事実なので、そこら辺をちゃんと分かったお医者さんとよく相談しながら使っていくというのが一番大事かなと思います。使ってる薬、使う薬の中には依存性のある薬もない薬もありますので、作用時間の長い薬も短い薬もあるので、そういう特性についてよく相談をして、一概に薬は依存性があるからダメって切っちゃうと、逆に子ども達がすごく苦しいことになるので、そこら辺をよく相談しながら使っていかれるのがいいかなと思います。 次の2つの質問が多分同じ方なのかな、発達障害のある児童・生徒を教育する学校と医療機関の連携について。その中で学校がすべきことは何でしょうかっていうのと、同じように生徒の保護者と学校の連携について、その中で学校がすべきことは何でしょうか。2つまとめてお答えしたいと思うんですけども。学校、家庭、医療機関という3つの場面でどうやって協調してっていうのかな、一緒に子どもを見ていくかということだと思うんですね。今日のお話の流れからすると、多分それにコミュニティを加えて4極ですね。4つの極でどうやって安全なネットワークを作って子どもを見ていくか、ということになろうかなと思います。その上で大事なことは、学校って、やっぱり学校にいる時間結構長くて、べったり学校の先生が関わっているんで、何かその学校で一番その子の問題点とか、らしさとかっていうのが、出て、出やすいって思いがちなんですよね。家庭もそうで、付き合ってる時間って相当長いので、しかも家庭でなきゃ出さないような甘えた出し方とか、思いがけないような出し方をするもので、学校では本当のところはあまり見えてないみたいに思われがちなんです。必要なことはですね、さっきの振り子の構図なんですよ。あれをうまく頭に入れてというか、共通の理解にして、子どもにはいろんな場面があるってことを、何が本当とかいうんじゃなくて、冷静に見ていくってことなんだと思うんです。例えば、ある子どもは、学校で相当いい子をやる、きちんということも聞ける、成績もいいし、なんだけど、おうちに帰るとそういう片鱗も見えずに、絶対勉強もせずにですよ、親の言うことを全く聞かずに親に対して「クソババア!」みたいにののしり倒すみたいな行動が続いていて、どうしましょうって。学校にいくら説明しても、「いや、そんなはずはない。」みたいに言われるし。親としては学校で友達関係も順調にやってるって言葉の方が信じられないし。その子どもで問題なのは、たぶんですね、学校の私と家の私がスイッチのように入れ替わっちゃうんですね。そのスイッチが何と何で入れ替わるかっていうと、先程の振り子の背伸びした私と赤ん坊の私がこう段階的にスムーズにじゃなくて、ぎこちなく入れ替わるわけです。スイッチが入ったり切れたりするみたいに。そういう問題だろう。つまりほどほどがないんですよね。ほどほどがなくなっちゃっている。だから、たぶん、その答えとしては、解消の方法としては、家でも少し甘えんぼやるんだけども、役割があって、程々に認められて、「すごいお兄ちゃんになったね。」とかって言われる、いいとこ見せることが必要だし、学校でもどこかでちょっとまったりしたり、うまくいかない自分を周りに助けてもらったりっていうところが必要。で、それができた時に初めてこうバランスのいい子どもの姿が見えてくるんじゃないだろうかっていう話をよく学校の先生とか親御さんたちとします。そういう何かスイッチみたいになっちゃってるってことが、きっとまずいところで、そうだとすると、この話の、じゃあその連携、学校、医療機関、家庭の連携をどうやっていくかっていうとですね、対等に、だからどっちが上とか下とかどっちがよく知ってるとかではなくて、医療機関だから専門的によく分かるとかいうことでもなくて、子どもにはいろんな面いろんな出し方がありますよね、ということを一緒に考え合うってことなんだと思うんですよね。対等に考えることだと思います。それが連携の基本ですし、一番大事な部分かなというふうに思います。 HSPっていう言葉を皆さんご存知でしょうか。ハイリー・センシティブ・パーソンだったかな、って言うんですけども。過敏な人たち、敏感すぎる人たち、繊細さみたいに言われることもあります。で、最新の医療情報を教えてくださいってことなんですけども。実はそのHSPという言葉は医療用語ではないんですね。作った人も心理学者で、その性格傾向について言っている言葉で診断名として使うのは誤りなんです。だから、私はHSPと診断されましたということはありえないんですね。今のところ全くその医学の方では、そういう診断名にするという動きもない。ただ、そういう性格の人がいるっていうふうに考えると、色々わかりやすい現象っていうのがあって、だからHSP的にすごく過敏な、敏感さ、繊細さを持っている多動な子もいるし、それを持っている自閉的な子どももいるし、それを持っているうつ病の人もいるということです。特徴の押さえ方だというふうに考えていただければよくて、ネットなんか見ると何かセルフチェックみたいながいっぱい出てきますけども、あれを使って、「私ってHSPです。」っていうのはちょっと間違いやすいかもしれない。決して病気ではない、だから治すものじゃないんですね。それとどうやって付き合っていくかっていう意味では、ちょっと発達障害とも似ているかもしれない。治すものじゃない。どうやって、それがありながらも困らないようにしていくかっていうことが問題だ、課題だっていうふうに考えると、発達障害という言葉と似てるかもしれない、っていうのが、この言葉の今の使われ方というふうに、お思いいただければいいかなと思います。 次の3つを一緒にお答えしたいと思うんですね。子どもの発達障害のことを心配している保護者・子どもの支援として大切なことは何でしょうか。就学前、乳幼児期の子ども・保護者を支えるために地域でできることというのは何でしょうかっていうご質問。次が現在、障害者雇用で1人働いてくれています。今後、キャリアアップなどについてどのように話したらいいでしょうか。孫が発達障害と診断され、どのように接したらよいでしょう、よいかを知りたいという質問です。 これも今日のお話をストレートに聞いていただくと、おわかりいただけるかなと思うんですけれども、発達障害である自分ていうのを、どれだけその人がwell-being、つまり私ってこうでよかったっていう価値観に結びつけられるかという問題だと思うんですよね。あるいは、そのために周りがどうやって、その人のらしさを理解してあげられるだろうかという問題だと思います。ごめんなさい、話がどうやって、これに結びつくか見えづらいと思うんですけども、私はクリニックで臨床をやってて、めったに診断は急いでつけないんですね。どうしても何か診断書を書くとかっていうことで、つけなきゃいけない時につける。あるいは本人達にお伝えをするっていうことにしてます。それまでどうやっているかっていうと、何も診断判断しないんじゃなくて、その子のらしさっていうのを、その子の特徴っていうのを診断名使わずに、できるだけ納得していったり、共有していったり、表現していったりということをするんですね。「それって君らしいとこだよね。」「えー、どこがですか。」「その考え方、みんながやってるからっていってさ、自分もやんなきゃいけないって、どうしても思わないわけじゃない。」っていうやり取りをよく重ねますよね。「それが発達障害だから」とか、「ちょっと自閉っぽいって言うんだよ」とかっていう話は一切しないです。そうすると残ってくるのは、積み重なってくるのは、そういう話の積み重ねっていうか蓄積なんですね。そういう理解。で、つけたければその理解の仕方に、そのパターンに、まあ発達障害的だとか、ちょっと自閉的だとかということをつけてもいいんだけれども、逆のことはあり得なくて、例えば、その人を自閉的っていう、どこかで診断がついてきました、じゃあその人を理解するのに自閉のことを勉強すれば、その人を理解できたことになるかと、たぶん、ならないと思うんですよ。つまり、僕は子どもさんにも親御さんにもよく言うことなんですけども、たぶん、ここから先はその子をその子として理解するしかないと思います。だから、診断が助けてくれるまでが結構浅いレベルまでで、それより深いところ、一般的に言える「多動な子どもは、こんなことしちゃいがちです。」とは言えるんだけども、じゃあこういう場面で、この子はどういう行動をとるかっていうのを決めるのは、そこから先の問題で、その先の説明っていうのは、その子を「多動症です。」って診断したことで分かってくるわけではない、「自閉症です。」と言ったところで分かってくれるわけではないんです。分かりますかね。そのことが実はこの今の3つの質問で共通していることで、就学前の乳幼児期の子どもとか保護者を支えるために地域でできることっていうのは、ああ、あそこの家の子ども多動らしいわよとか、ちょっと自閉っぽいわねってラベリングすることではなくて、その子のらしさをその子のらしさのまんま、ちょっと他の子どもが言うことが頭にくると、つい叩いちゃうところがあるみたい、みたいなことでもいいので、その子がやってしまいがちなこと、たぶん、その背後にはこんな気持ちがあるんだろうってことも含めて理解していく、理解につなげていく、ということが一番大事なことなんじゃないかな。だからそういう意味では、必ずしもそういう子どもを早く医療機関に結びつけて診断つければ問題が解決するわけではないだろうと思います、必ずしもね。それから障害者雇用で今働いてくれている人がいる、キャリアアップなどについてどのように話したらいいでしょうか、ということも全く同じなんですね。僕すごく苦い経験があって、ある高校生、発達障害軽くあって、コミュニケーション苦手で、自分でもそれは分かっていて、「僕って、対人的なことはできないと思います。」って言いながら、大学まで出て就職しようと思ったんですね。で、大学に入る時なんですけども、ある大学にアプライしたら、学生寮がある、で新聞配達をしながらその寮費を稼ぐんだ。そうすると今度は新聞社に、こういう人なんだけれどもサポートしてほしいってことをお願いしたら、その新聞社ですよ、新聞社の方から、アスペルガーの人はこうやって人に対して、傷害事件みたいなことがたまたまあった時で、事件を起こす可能性があるので、その診断がついた人を外交員として雇うわけにはいかないって言って、結局、その子、寮に入れなかったんです。僕はその時にその子にアスペルガーとかASDとかで診断をつけたっていうのをすごく後悔しましたし、そんな考え方があるんだって、その子自身を理解してないんですよね。理解することができなくて、アスペルガーっていう診断名に引かれてこんなリスクがあるという言い方がされることがまだあるんだ、しかも新聞社でさえって思った覚えがあります。今のお話が同じだと思うんですよね。雇った人にたまたま診断名がついている。でもその診断名にとらわれるんじゃなくて、その人がやりそうなこと、その人が困りそうなこと、その人が課題になりそうなこと、その人として理解する、ってことをされるようにするのがいいかなというふうに思います。最後のご質問の、孫が発達障害と診断されるということもそうです。診断された発達障害名にとらわれない方がいい。それがお孫さんの大事なところを表していると思うよりも、単純な診断名で割りきれない、どんな膨らみというか、厚みが、らしさの厚みがあるか、その子どもにあるかということを丁寧に読み解いていくということをされるのが一番いいように思いました。 お話は以上です。少し時間超過しちゃいましたけれども、質問も含めて皆さんと大事な時を共有できたと思います。本当は皆さんから直接質問いただきたかったんですけれども、このご時世なのでそれは割愛して、皆さんにできたら幾つかのことをお土産として持って帰っていただければ本当に嬉しいかなと思います。どうもご清聴ありがとうございました。 (拍手)